昨今は目に見えるものや、その最たるものである金で、全ての価値を図ろうとする。

これが私には好きになれない。

気を頼りにした治療を長年続けていると目に見えない現実があることを確信するに至る。

気の状態は病気と相応するから、気を見て病気が分かるのである。

そして、性格や価値観などにも相応していることにも気付かされるのである。

このような価値判断だから、世の多くの人の価値判断とは異なってしまう。

例えば、可愛い娘と、可愛くない娘とで、対応を変えるのは差別と呼ばれ否定されるべき行為である。

人が可愛いいと感じるのは、単なる感情であり、感情は科学ではないと反論されるのだろう。

私は感情は科学で解明できていないだけで、将来科学になる可能性はあると信じている。

気的に感情を分析すれば、一定の法則性があり、もう少し発展すると科学になると思う。だから感情で人を判断しても、それほど悪い事とは思わないのである。

差別とは同じものに差を付けて評価する事を云う。二つのものを見て差が判らない者は同じに映るが、差が判る者には区別されて当然である。

同じ人間だからと全てを同じ扱いにするのはおかしな話である。同じ人間でも記憶力の良い悪いがあるし、大きい小さいがある。凶暴な性格の者もあれば、優しい性格の者もある。

だから違いが判る者は区別であり、差が判らない者は、それを差別と呼ぶのである。

同じ笑顔をしていても、心底微笑んでいるのと、愛想笑いをしているのとでは内容が違うのである。

人の腹の中が判ってしまうと、差別は無いのである。全て区別である。

陰陽論では、まず太極あり、そこから陰陽に別れるとある。この時点で区別が始まるのである。

このように可愛いいと感じるのは、気とか、その他の科学で未だ解明されていない何かを介して感じているのかも知れないのである。

私の治療の現場では、長年治療を続けていただいている患者さんの病状と、患者さんの価値観、患者さんの人相(気的)には相関があるのである。

このようなことから、目に見えるものや、科学的なもののみでしか、価値判断としない現代の常識には納得できないのである。

科学で解明できない感知能力がある者は、科学の足らずを補い判断している場合もある。

人の判断基準には、個人の思い込みなどで判断基準にしない方がいいような場合もあるが、差別を定義する方々は、相手が嫌がることを強いることは差別となるとするようである。

そして判断する側の個人的価値判断は否定されるのである。

このようにして世の中を同一化しようとしているのである。

これは太極という意味での一つではなく、偏った一つと云える。

このように考察してみて、個人の判断基準はその人にとっては意味あることであり、否定されるべきでないと考える。