東洋医学を学び出した頃より悩まされたのが、理解不能な単語に、一つでない定義や複数の理論の錯綜であった。
それでも、鍼を刺し時に著効を現すことから、東洋医学は本物だと思ったり、時には悪化して落ち込むのであった。
効いたことで、悪化したことで、そのつど機序を考え診断に繋げる。
結局、診断は治療の後になるのである。
また、同じ患者を診ても、先生(鍼師)により違う診断をし、違う治療をしても治る場合がある。
治療が違えば治る筈がないと思うが、実際に治ることから考えれば、診断が曖昧か、治療が曖昧なことが分かる。
曖昧というのは、白を黒と診断を見間違い、黒の治療をしたつもりが白の治療をしていたなどいうものである。
なんとも理解が難しい世界だと思った。
難しくて幾度か鍼師を止めようと考えたことか。
それでも治る事実があることから、努力次第で整理が付くかもと考え留まった。
そして直感的に気というものを理解できれば何とかなりそうに思い、気の探求を目指した。
この道に入っておおよそ36年。
最近、気についての理解が深まり面白く学べるようになってきた。
気とは物質の全てに共存していて、あたかもスポンジ(物質)に染み込んだ水(気)のようなものである。
また生物には生物としての気があり、死ぬと肉としての気のみになる。
例えば人間には、「肉体が生命活動をし、正気を作り出す。正気は外界の正気と似た気を取り込み、正気とする。正気は肉体の生命活動に大きく寄与する」という相互扶助的関係がある。
このように気は生命活動としての気を正気と呼び、生命活動に害する気を邪気と呼ぶ。
病気とは肉体的不調、精神的不調であるが、同時に気の不調である。
現代医学的治療は肉体や精神状態、数値などを診て、物理的又は科学的にアプローチする。
東洋医学的治療は気を中心に診て、気を中心にアプローチする。
この時の気は、正気(生体に益する気)と邪気(生体の害する気)とのバランスを診て、正気で満たすことを治療目的とする。
このように気の理解が進むと共に、東洋医学の不可解な部分が、ふるいにかける如く整理がついてきた。
そして現代医学も気的に分析できるようになったことから、気的治療に組み込めることとなった。
そして今、現代医学の知識が重要と感じている。
科学的見地から気的医学はまやかしのように見えるが、気的分類ができるようになると、気には科学の如く原理や法則性がある。
ただ気は、人の思い次第で刻々と変化する性質を持っているので、診断には意識のコントロールや自在性が必須となる。
だから、気に関しての能力は、学問のように記憶が力になというものではなく、訓練や鍛練があって能力となるのである。
このように気を感じコントロールする能力が身に付くと世界観や死生観まで変わってくる。
私はこの気を頼りに気的実証主義となった。
例えば、多くの人は笑顔の人を見て優しさを感じるが、私は笑顔の向こう側や裏側を見る。
病人を診て、症状の向こう側の生活や性格を見る。
病人を治すには生活や性格を治さなければならない場合がある。
表面だけ診て、表面だけ治す治療法で治るのは軽症である。
重症は病人を深読みしなければならない。
このような経験から先人を鵜呑みにはしない。
自分の感覚を研ぎ、経験を積み、全てをこのふるいにかけ、取捨選択して治療としている。
気的実証主義なのである。