今、身の回りを見ると、いろんな健康法がある。

その中に気をベースにするものも多い。

気とは生命存続に大きく関わる非物理的物質である。

この気と同種のも、又は包含されりものとして、プラナ、オーラ、エーテル、ブリルなどがある。

多くのこれらに関わる専門家は、実感として認識して用いられていることは少なく、言葉としてのみの認識に満足しているようである。

私が全てを認識している訳ではないが、多くの専門家に足らずを感じてしまう。

例えば、鍼を皮膚に立て、龍頭(鍼先の反対端)から、温かい気が出るのを感じて気が通ったと言う。

確かに気が動いたという意味では正解であり、その意味で通ったという言葉は使っても間違いではない。

しかし、治療家である者は、病体を健康体に向けて治療家である。

鍼を立て、龍頭から温かい気が出てきたことイコール健康に向けたと判断するのは安直過ぎる。

龍頭からの温かい気は、龍頭から気が漏れ出ている意味であり、生命の構成物が漏れ出ているのである。

これは病人を健康に向けるのではなく、病気に向けているのである。

正確に云うのであれば、邪気が出て、正気が至ったと云うべきである。
そして、正気が至ったから、直ちに鍼を抜き、穴を閉じるべきである。
気が漏れていることを、危機に感じず、良くなったと思い違いをしているのである。
多くの鍼師はこのようなことを平然と云う。

黄帝内経に「鍼下熱は気至る」を言葉通り取っただけであり、この言葉の深い意味を理解していない現れである。

言葉とは、球体を立方体で表現するのに似ている。

100%は真似れないのである。

感覚で実体を感じられたら、言葉は表札でしかないことに気付くだろう。

気を感じることを続けていくと、気は言葉では表現し切れないことが解り、また多くの者が言葉だけで理解していることが分かる。

言葉で本質(実際)は伝えられないのである。